昨日の続きです。

昨日の続きになります。

けれども、河原なんかで小石遊びをした子供の頃を思い出して欲しい。

石で柱が作れたか。積んでも積んでも途中でフラフラして崩れる。賽の河原。

ちょっと違うがシジフォスの神話。

柱は難しいが、しかし大小の石を組み合わせながら積むと壁ならできる。

石は基本的な性格として壁に使われるのを望んでいる。

その証拠にヨーロッパの普通の農家や町屋を見ると、石の柱ではなくて石(煉瓦を含む)の壁で

できているではないか。

なのに銀行や官庁が石の壁ではなくて石の柱を並べるのは、民家では出来ない無理を敢えてすることで

力のほどを天下にしらしめようとしているのかもしれない。

そうした行いの源はもちろん古代ギリシャだが、どうして哲人揃いなのに石の柱をおっ立てるような

無理無体をあえてやったんだろうか。これには定説があり、「木の柱を真似て石の柱を立てた」のである。

柱だけではなくてギリシャ神殿はもともと丸ごと木造だが、途中で石造に置き換えられてしまった。

公園の柵なんかにセメント製の擬木が使われていて安っぽく見えるが、実はギリシャ神殿も擬木だった。

ただし白大理石製の。証拠は柱にある。石で作るなら角柱が一番作りやすいのに(原石は四角に切り出す)

丸太柱にならってわざわざ丸く削るのだ。ギリシャの柱の一番の特徴といわれるエンタシスも、先に行くに

従って細くなる木の丸太柱に倣っている。ドリス式などでは柱に縦の浅い溝が刻まれるが、これは丸太の

樹皮の凹凸が源という。柱だけでなく、たとえば軒の付け根に歯のような形状の凹凸が並ぶが、

「歯飾り」といい、木のタルキの尻の名残り。

大理石で木を真似るようなアブナイ起源を持つギリシャ神殿の信仰の中身がアブナクナイわけがあろうか。

世界史の教科書で習ったような知性と教養のギリシャ文明の殿堂なんかじゃ全然なかったことが近年の

研究で明らかにされている。神殿の中では蛇が飼われていたらしい。アテナイの女神は蛇の女神で

アクロポリスの神殿のペディメント(三角破風)には半神半蛇の象が刻まれていた。

ギリシャだけでなく中国でも日本でも蛇は、太古から生命力のシンボルとして崇められ恐れられてきたから

ギリシャの哲人たちが首から上の知性とは別にそうした人類の心の古層を保持してくれたのはうれしい。

この蛇体信仰のほかにもう一つ、ギリシャ神殿には教科書に書いていなかったアブナイ中身がある。

どうも、血と肉と酒の匂いが充満していたらしい。戦いの前に勝利を祈る時、酒や果実だけでなく

牛や羊を殺して列柱の辺りに捧げ、勝ったお礼として、敵の捕虜を列柱にしばりつけ犠牲に供し、

飲めや歌えの神人供食の夜は更ける。聖なる犠牲として乙女が捧げられたり、

神の言葉を聴こうとする者が神と通ずるため巫女と交わったとする説もおそらく正しいだろう。

実はこうした血と肉の記憶は大理石のギリシャ神殿のスタイルに刻まれていて、たとえばイオニア式の

渦巻きは犠牲の羊の頭に由来し、柱の礎石の同心円状の形は犠牲に供す捕虜をつないだ縄の形とも

言われる。ギリシャ神殿は、知性と教養の人間中心主義とは正反対の内容に満ちていたのだった。

さて、その神殿の柱に戻って、どうしてギリシャ人は最初の神殿を地中海地方の恵まれた大理石を使わず

あえて乏しい木の柱で支えたんだろうか。ギリシャ人は元をたどると北方の暗い森林地帯から明るく乾いた

地中海へと這い出てきた民族で、生命力に満ちた森の信仰と木造建築の記憶を忘れることができなかった

からと言われている。ところがやがて、おそらく木材の欠乏あたりが理由で、木の柱を石の柱に移し替える

ようになる。

それが何時のことかはっきりしないし、木造から石造への移行状態を示す遺構も残ってはいない。

あとは空想をたくましゅうするしかないが、おそらく当時の建築界にとって一大事だったに違いない。

木から石に変わるということは、いくら形を似せても印象はまるで違ってしまうし、大工が廃業になり

石工が天下を取る。伊勢神宮の檜の柱をコンクリート化するようなものだ。

そんなエセ神殿はいやだ。と言い張るギリシャの大工棟梁はどうやって諦めるにいたったのか。

「根継ぎ」がきっかけだつたんじゃないかと私は空想をたくましゅうしている。

木の柱の弱点は接地部分で、ここがまず腐る。

法隆寺もそうだか、柱の根元が腐るとその部分だけ新材に変える。

この根継ぎと呼ばれるメンテナンス技術は今では日本独特になっているが、大昔のギリシャ神殿で

行われていて、根継きにあたり、入手しやすくて腐らない大理石が嵌め込まれ、木の柱に合うように

模様が刻まれた。一部だけ石だとどうしてもまじめに木の形に似せないといけないから大理石の肌に

ノミで樹皮を刻んだり、それらしく色も塗られたことだろう。当然のようにそのうち擬木の上手な石工が

現れ、「ギリシャの左甚五郎」なんて呼ばれてうれしくなり、最初は腐った所だけ石に変えていたが

丈夫な柱の上の方まで取り替え、梁におよび、軒にいたり、哲人や大工が気づいた時には手遅れで

いつしか全て石造建築になってしまっていたのではないか。

ギリシャ人だって、なし崩しには弱いのだ。

天下無双の建築学入門/藤森照信著/ちくま新書刊

からの抜粋でした。(本書ではまだまだ、この話題が続き法隆寺や正倉院にまで呼びます)

ご興味のある方には、是非お勧めの一冊かも

古い時代に、木造から石造に変化していった(?)ギリシャ神殿。

コンクリート造なのに、木の柱や木のタルキ(?)を使う新国際競技場。

なんか運命のようなものを感じてしまうのは私だけでしょうか・・・。

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